今年は いろんな所のひまわり畑に行く事が出来ました。
昔から花は大好きです。
見るだけですけど。ほんの少しは華道はかじったことありますが・・・
そういえば、昔、「花の子ルンルン」は 欠かさずみてたな。
エンディングのあとの 今日の花言葉は?ってのも ちゃんときいてた。
あっ 年がバレるか・・・汗
今の季節 大好きなのは 向日葵 です。
色も形も大好きです。
なんだか、種を植えて 芽が出て 育つ姿を みていると
お日様になりたかった 向日葵 だけど
なれなくて
でもなりたいから ずっと お日様の方を向いていて
自分の花の形も
自分がなりたかったから お日様に似せているようで
実は 力強く咲いているみたいだけど
なんだか ひたむきな感じがします。
でも、お日様に なれないから たくさんの種を残して
その種達には きっと お日様になって欲しいって 願っているんですよね。
そんな風に考えていて
ふと我にかえると 夏も終わってたりして・・・。
写真は 上のこどもが撮ったひまわり。
一秒のコトバ
「はじめまして」 この一秒ほどの 短い言葉に
一生のときめきを 感じることがある。
「ありがとう」 この一秒ほどの 短い言葉に
人の優しさを 知ることがある。
「がんばって」 この一秒ほどの 短い言葉に
勇気がよみがえって くることがある。
「おめでとう」 この一秒ほどの 短い言葉に
しあわせに あふれることが ある。
「ごめんなさい」 この一秒ほどの 短い言葉に
人の弱さを 見ることがある。
「さようなら」 この一秒ほどの 短い言葉が
一生の別れに なる時がある。
一秒に喜び 一秒に泣く
一生懸命 一秒。
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すっと昔から 好きな詩です。
CMで 流れていました。
盆に 主人の母 が眠る墓地に お参りに行きました。
義母は 台風23号の犠牲者です。 被災後の 一週間を
一生懸命 生きました。
4歳になるこどもが お墓に向かって
自分の名前と 好きな遊びと
今通ってる保育園と、おばあちゃんにお話して。ってわたしが話すと、
子 「なぁなぁ 石やけど 話したらきこえるん?」
わたし「お盆は 亡くなった人が お墓に戻ってくるの。」と話すと。
子「石やのに・・・といいかけて そうや ココロ やんな と・・・」
こころが もどってくる。って コドモから発せられた言葉に
驚きました。
魂 という コトバは難しいし、 なんて説明したらよいか 思案していました。
こどもなりに 理解しているんだなと 驚きました。
一生懸命 一秒 一秒
いのちが 輝ける 毎日 にしたいです。
小さい勇気をこそ
人生の大嵐がやってきたとき
それがへっちゃらで乗りこえられるような大きい勇気もほしいにはほしいが
わたしは
小さい勇気こそほしい
わたしの大切な仕事をあとまわしにさせ
忘れさせようとする小さい悪魔が
テレビのスリルドラマや漫画にばけて
わたしを誘惑するとき
すぐそれがやっつけられるくらいの
小さい勇気でいいから
わたしは それがほしい
もう五分くらいねたっていいじゃないか
けさは寒いんだよと
あたたかい寝床の中にひそみこんで
わたしにささやきかける小さい悪魔を
すぐやっつけてしまえるくらいの
小さい勇気こそほしい
明日があるじゃないか
明日やればいいじゃないか
今夜はもう寝ろよと
机の下からささやきかける小さい悪魔を
すぐやっつけてしまえるくらいの
小さい勇気こそほしい
紙くずがおちているのを見つけたときは
気がつかなかったというふりをして
さっさといっちまえよ
かぜひきの鼻紙かもしれないよ
不潔じゃないか と 呼びかける
小さい悪魔を
すぐやっつけてしまえるくらいの
小さい勇気をこそ わたしは ほしい
どんな苦難ものり切れる
大きい勇気もほしいにはほしいが
毎日小出しにして使える
小さい勇気でいいから
それが わたしは
たくさん ほしい
それに
そういう小さい勇気を軽蔑していては
いざというときの
大きい勇気も つかめないのではないだろうか。
東井 義雄
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地元の 昔教師をされていた方の詩です。 試験勉強だったり、いろんな場面で
よく読んでました。
残念ながら もう亡くなっています。
最近のわたしは、小さい勇気・・・・ないデス。
仕事。 家事。 育児。 etc・・・
なので 戒めの気持ちもこめて・・・
考え方がネガティブな時
目には見えないけど
大きな壁があるのだと感じる時
いくら壊そうとしても
いくら乗り越えようとしても 無理だと思う時
その壁は とてつもなく 大きくて 頑丈だから
トライする前から 諦めてしまう。
なんにも しないで
ちょっとみただけで 最初から あきらめる
そんな自分が嫌になって
またまた ネガティブになる
たまに ちょっとやってみようかなと思っても
ずるして
どっかに 扉はないのかなって 探そうとする
簡単に見つかる方法は ないのかなと
手探りもしないで ただ ぼぉ~と見つめてるだけなんだけど・・・
偶然 見つけた扉を通り抜けて
その壁を通り過ぎたとしても
その壁は そのままそこに残ってて
次にまたきた時に
その扉をみつけらるれるかっていうと
また 偶然に頼るしかなくって。。。
自分の生き方を考えると
そんな感じで 生きてきたなと思ったりもして。
ちょっとだけ だけど
その壁を 叩いてみることにした。
自分のプライドとか、今まで築き上げてきたものを
気にしすぎてたのかもしれない。
ありのままに生きる。
好きなように生きる。
それができる人は、すごいと思う。
ちょっと叩く ぐらいしか
わたしにはできないのかもしれないけど。。。
見えない壁を壊す
最初の一歩だと信じたい。
最近 思うコト・・・を
最近 社会?教育?全体が 結果主義な 感じがする。
じゃんけんのかちまけ みたいに はっきり 勝ったヒトが 勝者みたいな。
思うんです。 まだ学習や教育が途中のコドモに対して どんな 場面でも
一位だったら 勝ち。基準より 上ならOK。のような
結果主義。そこに努力や、忍耐力や、気持ちや、練習量や、自分に勝つように頑張る力なんて
結果として 出なかったら 意味が無い みたいな・・・
ワタシは嫌。
職場にはまだ小さな子供がたくさんいます。
何をしても まだ未熟で折り紙一つにしてもまっすぐに折れないし、お箸もきちんと
持てない。 コトバだって、行動だって 未熟です。
そんなこどもが 一生懸命に 折った折り紙をワタシにくれる。いびつでも
破れてても おかまいなし。 でも
でもね。 そこに ココロは たくさんこもってる。
先生にあげたい。 この 魚を 折りたい。
たどたどしい文章で 手紙が書きたい。 間違ってても 何度も消して汚くても。
そんな気持ちやココロを育てる教育や保育がしたい。
そんな気持ち自体を大切にできる 大人になりたい。そうでありたい。
そんな教育現場になって欲しい。
なんどもなんども繰り返し練習したり、計算カードで 覚えても
結果として 出なかったとき。
ワタシはその努力を認めた上で、次回はがんばれるような コトバをかけたい。
結局 コドモのココロの発達が 危ぶまれ、危険な事をする子供。
そんな コドモが 大きくなって いろんな事件を起こしてる。
それって、み~んな おとなが・・・・・
ハンドメイドでも 思う。買うヒトのニーズに合わせて 縫ったり 作ったり、
売れるものをたくさん。 売れたらいいみたいな感じ。
結局結果論でしょ?
自分が好きな感じで 自由に作って、自分の個性や、感覚のものを
作りたい。
それが、不特定多数のひとに受け入れられるか は 別として、
ただ それが好きって言うヒトがいるとしたら それは 嬉しい。
こんなひとに こんなものを 縫いたい 作りたい!!
そんな気持ちを 私は大切にしたい。
そんなココロ 通うような ハンドメイドを ワタシはしたいなって
思っています。
最後まで読んで頂き
長文に お付き合い ありがとうございます。
これは あくまでも ワタシの価値観 ワタシの独断と偏見において
書いてます。 共感されない方も いらっしゃるかもしれません。
ただ ただ わたしの 想いを 書きつづったまでです・・・・。